市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

連続ツイート 「本気」(2010/09/05)@kenmogi


  • 連続引用

    • 本気(3)
      人間の脳は、相手がどれくらい本気であるかということを察知する能力を持っている。
      これ、疑問だなあ。本能的には、そうなのかもしれないが、 フツーの人(事なかれな人、苦労したくない人、楽したい人)は、そういうのを察知すると、 逆に距離を取ったりするんじゃないかなあ。 そっちの後天的な「能力」の方を何とかしないと、 建設的な雰囲気の社会にはたどり着けないんではないかなあ。

    • 本気(4)
      そのような「本気」に対しては、誰でも敬意を払う。
      そうあって欲しいと思う。ってことは、現状は、どうもそうではない (と、少なくとも私は感じている)。

    • 本気(10)
      もし、大学の関係者が、学問をできるだけ多くの人たちに伝えるということについて本気だったら、必死になってありとあらゆることをするだろう。大学の「公開講座」から伝わってくるのは、「とりあえずやってます」という弛緩した空気だけだ。
      であるねぇ。 多分、「自分が生き残るため」のことは「必死になってありとあらゆること」をしてるんだろう (し、そういう生存本能的なことを、否定するつもりはありません)。 が、「知」の最高峰であるべき「大学関係者」が、わたくし事だけで手一杯ですと言ってては いかんのではないのかな、と思うのです。 そういう「公」の側面で(も)「本気」を出してほしいのです。

      • 8/15/2010: 触れてほしい話題、29学会長緊急声明@mitsuhiro

      • 6/8/2010: 京大理学部、予算不足で寄付を募る@/.jp

    • 本気(12)
      日本に住んでいて一番頭に来るのは、本気で生きる気持ちもないやつらが、本気で何かをしようとしている人たちの足を引っ張ったり、揶揄したり、下らないことを押しつけたり、そういう光景があり過ぎるということ。
      本当なんだよな。でも、これ、今に始まったことではないってことを、 岡本太郎を読んで感じたんだよな(10/1/2000)。この一点では、日本は何ら進歩していない。

    • 本気(14)
      テンションの低い人に、意味のない形式や、よくわからない段取りを押しつけられる。こっちは、事を荒立てまいと思うから、「はいはい」と聞いたフリをしているが、仕事が終わったら後ろを振り返らずに全速力で逃げ出す。記憶から、そのテンションの低さを消す。

    • 本気(15)
      今の社会の、官僚たちや、マスメディアや、大学の先生たちの「ローテンション」に付き合っていたら、いつまで経っても本気になれないや。

    • 本気(17)
      段取りとか根回しとか、そんなかったるいことに付き合っている時代はそろそろ終わり。そろそろ、俺たちも本気(マジ)になろうぜ。
      同感である。

  • 「本気」をバカにする風潮が、なんかあるんだよな、日本には特に。

    • 海外に居た時に、そういう部分が全然なかったなんてことは、もちろんないんだけど、 その頃の職場(大学)にいるような人たち、知性のレベルで上の方の人たちには、 本気な人とかチャレンジしている人を評価、賞賛する気分があると、感じた。

    • 日本って、(括弧付きの)「頭のいい人」が、逆にそういう「本気」を小馬鹿にしている ように思う。これが決定的に失望してしまうポイントだ。

    • 例えば自分が属しているグループの中に、そういう人が一人でも居たら、 志というか、意識のレベルが、それだけでガクンと落ちるよね。

    • この括弧付きの「頭のいい人」ってのは、要するに「要領がいいだけの人」 に過ぎないってことだと思う。なんでそういう人が、社会の上の方に来てしまったのか、 ってことが問題じゃないかな。

    • 9/12/2010: 気がつくと、同じ事ばかり言っている。

  • 振り返ってみたら、このあたりのkenmogi氏のイライラは、 6〜7年前に梅田望夫氏が感じていた気分と似ているのかもしれない。

  • なんで古い記述を調べてみる気になったかというと、 mochioさんの以下の記事のことをふと思い出したから。

    • 10/7/2003: 「仕事をやめて、会社をはじめることにしました。」と発表したら……

  • 以下、雑感。

    • テーマの「本気」だけど、 ぼく自身はこれまで、「本気」よりも、「本物」になることを目指してきたように思う。 その上で、「本物」を感じる人を求めていて、「本物」をもった人を尊敬してきたと思う。 (そういう人には、正直、なかなか出会えなかったけれど。) 学生の頃(高校の後半かなあ)にそう思い始めたと思うが、 そうやってたら「学者」になってしまっていた。とはいえ、この学問の世界も、 残念ながら「まがいもの」は多い。というか、いや、むしろ学問の世界の方が 多いのかもしれない。専門性という隠れ蓑があるから、妥協しやすいのだろう。 昔は本物だったのかもしれないが、それからの精進を忘れて、過去の栄光だけで生きてる、 そういう「まがいもの」は、本当にたくさんいた。

      • ちなみに、この「まがいもの」を見つけるのは簡単で、 あっちが言う事でこっちが分からないことを素直に質問してみればよい。 「本物」は、どんなに「エライ」人でも(科学者である限りは、また、教育者である限りは) きちんと説明してくれる。 無視したり、ふんぞり返ったり、怒ったりするようなら、「まがいもの」認定。

    • で、「本物」になるってことは当然、生半可なことではできなくて、結果として、必然的に、 「本気」で事に当たってきたのだとは思う。対外的にではなくて、自分に対して。

    • 損得勘定をしてしまうと、「本物」を目指すってのは、絶対に割に合わないことだと思う。 だから、みんな、まがいもので手を打つんだと思う。それでいい人はいいのだと思う。 でも、「本物」を知らないで、まがいものしか知らないで生きていくのって、 ちょっと寂しいというか、もったいない気がする。 人生すべてに対して全部本気なんて、そんなこと、まあ普通はできないけれど、 1つも「本物」をもたないってのは、それはいろんな意味で貧しいことだと思う。

    • 8/4/2010: 評論家なんて、実践している人に比べると1ランク下だよなという認識

    • 1/29/2011: @vikingjpn 頭が良いふりをする馬鹿ほど扱いに困るものはない。