「コンピュータは人間を進化させるか アラン・ケイ氏インタビュー」 @pcwatch
「Matzにっき2006-09-25」 から
引用ケイ氏は今の状況に多少失望もしている。人々は科学的思考をするようになるどころか、簡単に情報を与えてくれるネットによって、自分たちの無知に気づけない状況を強めていると見る。
--今の状態で一番足りないのは何か、インフラか。
ケイ:これは私自身もまだ理解しようとしていることだが、大事なことは学ぶことと関係があるだろう。
(Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな、再発明されていることだ。
だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。
私はGoogleの社員に、「エンゲルバートを知っているか」と聞いたことがある。「ええ。マウスを発明した人でしょ」。「彼がしたことは?」「さあ。なんでそんなことを知りたがるんです?」
彼らは何でも見つけることができる会社にいるのに、学ぶ気がまるでなかった。エンゲルバートと打ち込めば最初のエントリーで彼が書いた75の論文を手に入れられる。3つめでデモが見られる。なのに、コンピュータ分野の最重要人物の一人だった人物に関して、彼らはなぜそんなに知りたがらないのか。この関心の無さはポップカルチャーの関心の無さだ。言い換えると彼らは過去のことすべてに関心が持てないのだ。
Webの進みが遅いのは、Webが知る意欲のない大勢の人々によって動かされているためだと思う。彼らにはただ自分たちのアイデアがあって、それが彼らにとって重要なことだ。その考えがいいか悪いかは関係ない。ただ自分たちのアイデアを世界に向かって語り広めたいだけ。
過去1世紀の電子技術のほとんどは退行的だ。というのは電子技術の多くは書くことよりオーラルコミュニケーションを奨励するからだ。昔、人々に読み書きを強いた多くのものは今は存在しない。楽しみのために読まなければ、恐らく必要になったときには読む鍛錬が足りていないだろう。書くこともどんどん不要になっている。将来はもっと、コンピュータが、“学ばないこと”の言い訳になるかもしれない。米国の多くの学校は、子供がGoogleで何かを見つけコピーすると、それで学んでいると思っている。しかし私は、子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならないと主張している。作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めるだけではない。しかしほとんどの学校はその違いを分からない。
だから、理想的未来は人々が今日よりも、よりよく考える未来だが、ありそうな未来は、人々がよりよく考えないでしかもそれに気付かない未来かもしれない。
このように、現実世界には(絶対の)正も誤もない。もし世界中の大人が皆、世界が正誤に分けられないことを理解したら、非常に大きな違いを生むだろう。何百万もの人々が、世界に2つのカテゴリーしかないと考えているために、互いを殺し合っている。科学が原子よりずっと大きな概念だ、とはこういうことだ。何事に対してもどうよく考えるかということだ。
強く共感した(ので、大量に引用してしまった)。
つまり今この瞬間は、 科学者と教育者 (つまりは大学の先生) が 社会に対してとても大きな役割を持っているということなんだろう。
一方で当の今時の科学者たちは「ポップカルチャー」な人たちばっかだったりして……
←10/11/2006