市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

富永仲基(とみなが なかもと)


  • 相も変わらずトイレの友は「遊学」。IとIIを行ったり来たりしているが、 最近はもっぱらI。それもここ数日、開くと「富永仲基」で、 いつも以下のフレーズに目が止まる:
    インド古代の昔より、こんなことはあらためて強調するまでもない。 大工が金槌と鋸とによって、 サラリーマンが時間と背広によって、 スーパーマーケットがチラシとペーパーバッグによって、 職能神話を支えているように、 宗教は神と仏を商売道具とすることで生活をしてきたにすぎなかった。
    …中略…
    科学に必要なものは数学ではなくて数学的自由であるように、 数学に必要なものは計算ではなくて計算からの自由であるように、 宗教に必要なものは強い信仰心でも反信仰心でもなく、「宗教からの自由」であるとしるべきだ。

  • この「富永仲基」にからめて「遊学」の中で松岡さんが再三言及されている 「加上」の理論が今ひとつ腑に落ちてこない。 wikipedia 様によると(出定後語)、 歴史的に上書きされていくというプロセス自身を指すみたいなんだけど、 私が気になったポイントは、以下の記述:
    これとおなじ主張を足穂は何度か書いている。『仏教の将来』の一節だ。 「今日では僕は、二千年前におこったらしい畏敬すべき何事かは別として、 各教会が代表しているような件は、石膏細工のエルサレム模型の上に 電気の月光を浴びせるだけで充分だと思っている」。
     仲基もまた、「二千年前におこったらしい畏敬すべき何事か」だけを本物とみて、 それ以降の仏教史はこの「上を出づ」(加上)ために改修された産物の、 そのまた改修の繰り返しにすぎないと喝破した。
    つまり、そういうプロセスを見渡しておいて、 何が本質なのかをきちんと見切ることに力点がある、と。 これってつまり、普通の科学研究がやっていることだよな、と。 しかし、今後100年、200年 (くらいなら、想像はできる)、 千年、二千年と時が経ったとき、今の科学の健全さが保たれているとは思わない。 きっとここで揶揄されているような宗教屋のようなことになっているだろう。 (今でも実はすでになってるかな? 大学教授の職能神話は何によって支えられているのだろうか?)

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