市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

「足元を見よ」@tatsuru


  • 樹さん、ここのところ「内向き」ネタが連発している。これで3度目かな。 (cf. 1/7/2009, 12/17/2009) それだけ外野がこの辺に反応しているということなんだろうか?

  • 私は相変わらずそっちじゃない、些末な線に反応している訳だが。引用:
    かつて多田先生に「武道家としてまず心すべきことは何でしょう」と訊いたことがある。 そのとき、長時間のインタビューを終えたあと、月窓寺道場の入り口に私たちは 立っていたのだが、先生は沓脱ぎに掲げてある木札をすと指さして「脚下照顧」とおっしゃった。 「足元を見ろ、だよ。内田君」 爾来、私は師のこの言葉を座右の銘としている。

    武道は「石火の機」を重んじる。 訊かれたら即答。 その場にあるものをためらうことなく「それ」と指さして、 「これだよ」と言わなければならない。

    ロラン・バルトが俳句について書いていた言葉を思い出した。 「俳句は純粋な単一の指示作用にまで縮減されている。(…) 一筆で、一気に引かれた線のように、そこには迷いもためらいもない。 (…)俳句は子供が指で何かを指し示して、一言『これ!』と言うときの仕草を 再現しているのである。」

  • このことは、孤独な日々、一人座る時の友である「遊学」の最近引っかかってる 道元の頁に共鳴している。
    禅林では「道」という字を「道う」(言う)とつかって、その公案の多くに「速やかに道え」と 迫る箇所がある。
    ……
    一般には、禅にはヘーゲル弁証法ハイデッガー存在学との親密な通底器があるとされる見解が 強いものの、私はそういうヨーロッパの水を引いてくる哲学的解釈は禅から速度の快感をとりさる 危険があるとおもっている。

  • 私に何が足りないといって、この「速度感」が何よりも欠乏しているように思う。 何か迷ったとき、まず立ち止まってしまう。どうにでもなれ!という開放感には、 これがなかなか踏み切れないんだな。単に臆病なんだろう。 こういう感覚は一体どう涵養するのがよいのだろうか?

  • 付記: 「悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない--宮崎駿監督、映画哲学を語る」@makoto (lc: )