市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

論争について(2010年06月05日 10:49)@tatsuru


  • 引用
    論争におけるマナーについて高橋源一郎さんがツイッターに書いていた。 私は高橋さんの提言に100%賛成である。ここに採録しておきたいと思う。
    いまからツイートするのは、ぼくが「政治的アクション・政治的言論」に関して原則とすべき、と考えていることです。それは政治的事件や政策への批判、なんらかの提案、具体的な行動、等々、政治に関する関わりのすべてを含む政治的アクションを起こすにあたって、守るべきことと考えているものです。

    • 原則1・「批判」は「対案」を抱いて臨むべし……政治的問題を批判する時、 単なる批判ではなく、なんらかの 「対案」を抱いてからあたるべきです。 「××の〇〇という政策は愚か」ではなく「××の〇〇という政策で、△△は評価に値するが、 □□は▲▲へ代替すべき」という語法で語るべきです。

    • 原則2・「対案」は「原理的」「現実的」「応急」「思いつき」のいずれでも良し…… 政治的問題に「正解」はありません。ただ「最適解」が存在するだけです。 必要なのは、「最適解」に至る材料を提出することです。 「言わない」ことがいちばんまずいのです。なぜ、 批判だけするのか。

    • 原則2続・ぼくたちが「批判」だけして、「対案」を出さないのは、 自分もまた「正解」を知らない、と思って いるからです。 「どこかに正解がある」と学校教育は教えます。けれど、政治的イッシューに 「正解」などないのです。だからこそ、なんでも「言ってみる」べきなのです。

    • 原則3・「自分の意見」は変わるべし…「対案」として「自分の意見」を提出しても、 固執する必要はありません。というか、よりましな意見を目にしたら、 「即座に変える」べきだとぼくは考えます。なぜなら、 「対案」もまた「叩き台」にすぎないからです。一人より 複数の智恵を参考にすべきです。

    • 原則4・「対立する相手」の意見にこそ耳をかたむけるべし…もっとも本質的な批判は、 対立者からのものです。だから、その意見にこそ耳をかたむけなければなりません。 同調者や支持者の意見は、耳に優しいものですが、自分の「対案」を、 「よりまし」にする力にはならないからです。

    • 原則5・「寛容」をもって臨むべし……「対立」する意見を持つ「対立者」を 「敵」と考えてはなりません。 「対立者」もまた、同じこの共同体を構成する、 かけがえのない成員なのですから。だから、「非国民」「売国奴」「愚か者」のような 言葉を決して使ってはなりません。
    ぼくがこのような原則を採用している理由は、 60年代から70年にかけて、政治運動に参加していた時、 この原則を採用できず、悲惨な結果を招いたことがあったからです。 以後、ぼくは、これらを守るべき原則と考えるようになったのです。

    • いろいろ思うところはあるけれど、その中の1つに「原則3」がある。 これ、口喧嘩でもメディアのバッシングでもよく出る「首尾一貫性」とか「変節」とか。 ぼくも、そんなものどうだっていいじゃないか、と思うし、 「原則3」を common sense にした方が(その逆をそうするよりも)ずっと生産的だ。 だって、過去に間違った考えを持ってしまったら、その人は後で間違いに気づいても、 それを正さない方がいいってな本末転倒なことになるじゃない? (で、実際、そうやってがんじがらめに、みんな、なっていくじゃない?)

    • 11/20/2007 にもコメントしているけど、こういう認識を持ったのは ralph emersonself-reliancethe american scholar からだった。大学の教養のころ(岩波文庫にて)。

  • たつるさんについては、随分と長い間 blog を読んでいるので、だいだいどういう人なのか 想像できている(つもりだ)けど、高橋源一郎については、競馬の予想をのんきにしてるおっさん 程度の認識しかない。

  • みると、ここにも「敵を愛せ」的なフレーズ (「対立する相手」の意見にこそ耳をかたむけるべし)があるな。 さいきんのはやりなんだろうか?

    • 6/4/2010: masason

      • 「批判する人を恨んではならない。それは、自分の成長への道を示してくれているのだから。」

      • 「私は、あらゆる批判を有難く受け止めたい。それは、私を鍛えてくれるから。」