市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

ぼくが影響を受けた5人から、三人目。


  • 「ぼくが影響を受けた5人」シリーズの三人目は、 大学の恩師、都築俊夫先生。

    • うちの研究室は、いわゆる「さん付け」文化だった。「センセイ」呼びは、 現役研究者からは既に足を洗った人、という雰囲気の呼称みたいな。 そういう意味で、都築さんと書くことにする。

    • 実際、大学院に上がって以来、都築さんからは常に「いちきさん」と言われていた。

    • これは、ある時、改めて後輩に指摘されて、気付いたこと。

    • それから、これも後で思ったが、決して「君」じゃないところには(一研究者としての 扱いというものと同時に)、男女平等的な意識も、あったのかもしれないなぁ。

  • 5/27/2002 のブログ・エントリーに書いた、都築さんのことば。 そのエントリーで自分で文字に起こした文書を に置いてるけど、ちょうど「影響を受けた5人」シリーズにふさわしい内容だし、 ここに引用しておく:
    感謝と提言

    理学研究科教授 都築俊夫

    高知出身の いごっそう 。幼少期 はちきん 大叔母に連れ歩かれて「お大師さんが見てらっしゃるぜよ」、「龍馬 (りゅうま) のようになるがぜよ」と聴かされて育った。この大叔母が明治の中頃女だてらに尋常小学校を修め農村漁村で娘達にお針を手解きしながら字を教えていた本物の はちきん さんと知るは後のこと。母性原理の社会の中で、意識的にも無意識的にも父性原理で行動してきた遠因であろうか。新制中学 1 年の秋湯川秀樹先生がノーベル賞を受けられた。日本中で多くの青年が道を誤ったが、私もそのひとり。大学の理科系に入学した時縁者や村の人をがっかりさせたようだ。

    私は物性理論物理学、特に非線形物理学、秩序形成の物理学を研究してきた。独学です。しかし足を向けて寝ることができない恩師が 5 人います。御尊名は伏見康治先生(大阪大)、西山敏之先生(大阪大)、松原武生先生(京都大)、中嶋貞雄先生(東京大)、恒藤敏彦先生(京都大)です。どの先生も学問上国際的に高い達成をされましたが、不肖私は学問を継承できませんでした。伏見先生には今日に到るも社会に対する視点を教示いただいています。大学院修了間際の見知らぬ青年に「私を買って下さい」と言われ、数ヵ月後「機会を与えよう 2 年だけ」と助手に採用して下さった松原先生の御決断に唯々感謝申し上げるばかり。幸い 2 年後に中嶋先生の御推薦で九大に移ることができました。「本当に能力があれば機会を与えられることの意味は分かるはず」との先生の御言葉を以来実践しているつもり。徳のある人を真似る身の程知らずを痛感し放し。でも止めようとは思わなかった。神々に愛でられし恒藤先生は知と美の師でありました。恒藤・真木(和美)・都築 3 人組がインパクトを与えた時期もありました。金研の神田英蔵先生は助手期以来見知らぬ私に目を掛けて下さり、以来名前を覚えておられて、文など頂戴しました。本当に有り難いことでした。

    1974 年に東北大に来て間もない頃教授会で大学改革の議論がありました。私は「どの層が開放されてパワーとなるのか? 明治維新は下級武士と大地主の息子達が、敗戦後の改革では男のすべてが解放され、その時期に必要な情熱に溢れたパワーを得られた。今、男だけではパワーが足りない」と発言して変人と思われた。今大学改革が求められ声高に論じられているが、それを担う新たな層をどこに求めるか。それ無しには一時の改善に留まる。アメリカは達観している。現国民にほとんど期待していない。世界中の志のある若者を吸収し、その中の最良部に市民権を与えて国力化している。さすが移民の国。

    紙数が尽きた。全学から糾合して 大学者 の学部研究科を新たに作ろう。次代のリーダー達に高い視野に立った文明論を涵養しよう。東北大学が真に尊敬される大学となる要件。

    私達のセミナー室に揚げた芭蕉の句で筆を擱く。

    「草いろいろおのおの花の手柄かな」

    • この文章自体は、私が研究室を離れてから目にしたものだけど、 それまで暗黙のうちに感じていたことで、その背後にこういう思いがあったのか、 と納得できた気がした。

    • それに、この文章が、更にその後の私自身に、大きく影響を与えた事は、確かだ。

  • 都築さんは、ぼくらが学生の頃は、ちょっと怖そうな先生という印象だったと思う。

    • でも、私自身は、怒られたことがなかったせいか、あんまりそう思ったことはない。

    • 怒られなかったのは、きっと私自身に、都築さんがそうであったような (古いタイプの)「理論家」の資質が微塵もなく、 都築さん自身が鍛えるに値しない、という事だったのだろうとは思う。

      • 実際、セミナーなどで、そっち方面に強い学生のプレゼンへの突込みは、 鋭いものがあったし。

      • 私は、計算機でやっていく指向だったので。

    • あと、都築さん自身、非研究、非教育的な、 いわゆる雑用で忙しく、実際の研究は当時、研究室の助手だった早川さんとやっていた といったこともあるのだろう。

  • 思い出、その1。

    • 私は、D3の年から、早川さんの異動にくっついて京都に移ったので (籍は東北大に残したままで、依託学生として)、 学位審査のためだけに冬の仙台に戻った(長期滞在のホテルに泊まった)。

    • 審査の前に、一対一で発表練習を聞いてもらった時、 私が非専門家に分かりやすくと気をつかって、 (ちょっと余分な)たとえ話みたいな導入を入れたりしていたのだけど、 一通り終わった後、「あの部分は、必要ないのでは」と、やんわりと怒られた。

    • 私の中で、必要以上にこちらが下手に出ることに対する問題意識を強く持つことになる イベントだった。(星の王子様のなかで出てきた「飼い馴らされる」という単語の事を その時強く連想した事を覚えている。)

  • 思い出、その2。

    • 無事に審査が終わった後、バス停に歩いていたらちょうど都築さんと一緒になり、 その場で「よし、晩飯おごってやろう」と、中国酒家に連れて行ってもらったのは、 忘れられない思い出だ。

    • こういうこと、私もどこかで誰かに、してあげたいなぁと思った。

    • その時のはなしだったかな(他に、そういうはなしをする機会などなかったし) 研究室の人事について、研究室の雰囲気などについて人間的にちょっと難しいようなことも あったかもしれないけど、(学問的に)面白い人を、その点だけで、意識的に、選んでいるから、 というようなことを言われたように思う。上の文書を読んだ時、
      「本当に能力があれば機会を与えられることの意味は分かるはず」 との先生の御言葉を以来実践しているつもり
      のことだったのかな、と思ったっけ。

  • 今、どうされているかは知らないが、 私がこんなへそ曲がりになった理由の1%くらいは、 こんな都築先生の熱い所が影響しているのかもしれない、と今更、思う。

  • 前のエントリーへのリンク (5/27/2002) だけで三人目は終わりかなと思ってたけど、色々思い出してきて、ついつい書いてしまった。

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