日本人が下品であると感じた事
そういうことが、この週末に、3つあったので、 忘れないようにするために書いておく。
1つめは、ちょっとしたことから見たビデオ、 「仕事の流儀フ?ロフェッショナルの仕事「弁護士、宇都宮健児」」
今回東京都知事選に出馬した宇都宮健児さんという弁護士の人、 ぼくは世事に疎いのでどういう人か知らなかったんだけど、 その道では有名な人だったようで、上述のようにテレビ番組にも 人物として取り上げられるほどの人だった。
これを見てびっくりした。品がないというか、つまり下品だなと思った。 それは「番組の仕組みになってます」とかなんとか言って、 鞄の中身を(本人ではなく)アナウンサーが手を突っ込んで、 「あっ」とかいいながら手帳を取り出し、 「中を見せて下さい」と言って開くところ。
こういうこと、知り合いとか友だちに対して、できないよね、普通。 それを「テレビ番組ですから」という前置きがつくだけで、 平気でやっているところに、長らくテレビから遠ざかっていたせいか、 ビックリした。 こういうの見せられ続けると、きっと、知り合いとか友だちに 平気でできるようになったりしそうだなぁ(と、これは妄想だが)
それにこれ、民放とか、お昼の下世話な番組とかではなく、 NHK の、ドキュメンタリー風な演出の、硬派をきどった番組だったので、 ビックリというより、ガックリした、という感じ。
あと、なぜこういう「ドキュメンタリー風な演出」にするんだろう。 スタジオに呼ぶ必要ない、という意味。 あのスタジオ部分の価値って、茂木健一郎は、 「年収幾らですか」とズバッと聞いたところだとか思っているんだろうか? これも含めて、ぼくは、品がないと感じたんだろうな。
ま、だからって、昔好きで見てた「情熱大陸」みたいに (これはスタジオでコメンテーターな人たちとのインタビューとかないけれど) 各回の(おそらくは若い)ディレクターの頭の中にある(チープな)筋書きに、 対象となる人物を無理矢理に押し込めて、 もったいぶったナレーションを付けるのと、 どっちがいいんだってことになるんだろうけど。 でも、個人的には、後者の方が、まだましだな。
2つめは、ツイート(soulsearcher216/status/427348781747552256)山下達郎さんが今日の放送で語った名言全文起こし登場。仕事はやい!
改めて胸に秘めたいです。感謝です
@nya_wa 今日の放送、例の全文はこちら→
サンデー・ソングブック(2014年1月26日) http://wp.me/p2Ujdc-1p #sundaysongbook
16:54 - 2014年1月26日
そこにある山下達郎の言葉 山下達郎のサンデー・ソングブック(2014年1月26日放送) から、ファンとかマニアとかいう人たちの下品さを感じた。
以下、引用:そうしたファンとかマニアとかおっしゃる人々のですね、
ある意味でのそうした独善性というものを
大瀧さんがもっとも忌み嫌ったものでありました。
親とか兄弟の関係を他人に説明できないのに、
僕と青山くん、僕と大瀧さん、そうした個人的関係はまたですね、
第三者に説明できるものではないし、説明したいとも思いません。
この最後の部分は、日本に帰ってきてから強烈に感じた事の1つだ。 とても個人的な部分について、 そんな身内でもなければ全然親しくもなく信頼関係も構築されてなくて 尊敬もしてない人たちに、なんでイチイチ説明する必要があるんだ。
もう1つもツイートから(mayumiura/status/427261181519462400)"欧米人に養子縁組をした事を伝えると「おめでとう!」と真っ先に言われ、
細かいことは詮索されません。
しかし日本人の方々に養子縁組のことを伝えると
「え?何で?」と根掘り葉掘り聞かれます。
この差は一体何なんだろう?と思った時に、
やはり…"bit.ly/1aTUWnd
11:06 - 2014年1月26日
長いツイートの切れた部分(という理解でいいのかな?)はやはり日本ではまだまだ養子縁組に対する偏見や、
となってた。
血の繋がりを大切にする日本ならではの、
偏った考え方が根強くあるんだろうと思いました。
この結論部分については、ぼくは別の考えなんだけど、 でも実際にぼくらも、あっちに住んでた時とこっちに帰ってきてからで、 同じような気分を味わった。
ぼくが感じるのは、日本人は「本音と建前」って言って、 表では当たり障りの無い下らないことばかりで、 しかし酒でも飲むと急に、極めてプライベートな事までしゃべる/聞きたがる 本音になる。本音と建前の間に段階が全然ない。 玄関を開けたら目の前にもうすぐ便所がある感じ。 それは、やっぱり、下品というのだろう。
なんでこうなるのか、という点については、 日本人は総中流意識というように、みんな自分と同じ境遇だ、という 幻想を共有しているのじゃないかな、と思う。 それは寡占状態なテレビによる一種の洗脳みたいなものかな、とも思う。
アメリカとかに居た時、自分とあまりにも違う背景を持つ人たちに、 こっちも、あっちも、自分たちに理解のできない事柄を抱えているのだろう、 という想像力なのか思いやりなのか、そういうものがあった。
想像力というか優しさというか、 そういうものをぼくは失わないようにしたいと、改めて思った。