市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

「1159夜 石岡瑛子 I DESIGN」 @senya


  • 引用しよう
    … ここぞというところで瑛子さんが逆襲をかけている現場感覚 … 「切羽つまる」という言葉あるが、瑛子さんはその「切羽」にこそ賭けているからだ。

    いったいこんなデザインをどのように思いつくのか。 最初は当然ながら脚本を読みこみ、論理的な分析や構築を試みるのだという。 しかしこの段階ではまだヴィジュアライゼーションを発想しない。 瑛子さんはいったん自分を「無」(タブラ・ラサ)にし、 そこから作り手たちの意思と感情の読みに入っていく。 そして思いつくありとあらゆるアイディアを片っ端からスケッチにしていく。 資料も取り寄せる。
     それを矯めつ眇めつ検討し、監督や演出家やスタッフと話しこみ、 そこからは今度は一つずつを消していく。 こうしていくつかの候補が絞れたら、 そこに観客たちに向けた血液をどくどくと送りこむ。 ときに沈黙や号泣を考える。 最後に、この作業によって「見えないものが見えるようになったのか」 ということをチェックする。
     だいたいはこんな手順だ。 しかし、手順がすぐれた成果を生むなら楽なもの、それだけでは仕事は充実しない。 本書を読めばどのページからも伝わってくるが、 瑛子さんは最後には必ず「熱気」(ゼスト)と切り結ぶことによって、 その仕事を溶鉱炉にしていこうと励む。

    いったい何が「未練」で、 何が「断定」すべきことなのかをつねに見極めているところが石岡瑛子なのだ。 もっとわかりやすくいうのなら、 何が「残念」なことで、何が「あっぱれ」なことなのか、 たえず仕事の渦中で鮮明にしているということだ。 そして、このことを必ず表明する。 「それは残念ね」「それはすばらしいわ」というふうに。

    どんなところにもギョーカイというものがあって、 真の創造性はどんな場合でもギョーカイとは衝突しながら進むものだ ということも理解できることだろう。
     しかし、問題はギョーカイにあるのではない。 仕事を厳密に、かつ大胆に運べるかどうかという、そのことなのである。

    なにより感心したのは、 事前にプロジェクターとスクリーンの関係をコンマ1ミリの狂いもなく 合わせるために時間をとったことだった。 それをまことにチャーミングな手さばきでやりとげ、 そして長い黒髪をバラっとかきあげ、「はい、これでオーケーね」と言ったあと、 「さあ、あとは私の問題ね」とニコッと笑ったことだった。

  • そうか、あの JLo の(ちょっと気持悪かった)映画とか bjork の(これも気持悪い)PVの人か。 あとアカデミー賞とったシーンは実はテレビで見てたかもしれない (当然そのときは認識してないが)

  • AY を仕切ってる人はヒドイのかぁ

  • 2006/10/31: やっぱ「未練、断定、表明」は大事だと思うので、 定理にする。

  • 8/7/2008: タモリの弔辞から思ったこと。