市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

「第千二百十八夜 2008年1月23日 加藤百合 大正の夢の設計家 西村伊作と文化学院」@senya


  • 引用:
    8歳で両親を失い、いままた“ぼくの叔父さん”を失った伊作は、 このあとどうなっていったのか。生活者としての日々の革新に向かうことにした。

    伊作はここにおいて、生活者としての日々を芸術生活者としての日々に切り替えていく。 自身もいろいろ芸術に手を出した。すでにシンガポール時代に絵画に遊んでいたが、 このころは富本憲吉の影響もあって独学で陶芸にもとりくんだ。 また、大石誠之助譲りの料理にも熱中した。 …… とくに住宅建築には力を注いだ。そこには伊作なりの理念や理想があった。 工業社会に抵抗して、芸術的生活社会を作りあげたいという理想である。 そのため、農家と近代住宅の合いの子のような家を考えた。それを「コテージ」とも言っている。

    大正9年(1920)、伊作は軽井沢千ケ滝の与謝野鉄幹の山荘に石井柏亭らと遊んで、 そこで「学校をつくったらどうか」と勧められた。
     そう言われてみると、伊作には大いに得心できるものがある。 …… 実はすでに伊作には壮大な構想があったのである。 いささか夢想のたぐいに見えるけれど、本気だったようだ。 その本気の構想の一角が、まず「文化学院」になったのだった。 ……
     駿河台にホテルをつくってそこに文化サロンを創成させることと、 小田原に「世界人の家」をつくること、これが伊作の当初のドリームプランだったのである。 両方ともアーティスト・レジデントじみているのが特色で、 背景にはあきらかにハワードの田園都市構想や武者小路実篤らの「新しい村」がある。
     そこへ学校創立が持ち上がったのだった。伊作はこちらに乗った。

    募集生徒には晶子のたっての希望もあって、とびきりの少女たちが選ばれた。 入学試験はなし。応募者全員を晶子が面接し、入学許可された者には晶子の直筆の手紙が届いた。 「この後は家庭の延長として本校を御考へ下され、お親しく願上げます」 という下りが入っていた。 ただし授業料は当時最高といわれた慶応義塾大学よりも高く、年額120円。

    文化学院はいわゆる各種学校である。 が、そのぶん、学校方針もカリキュラムも人材も自由であった。
     とくに晶子の教育はめざましい。 古典と作歌と現代国語を担当したのだが、現代国語などは自分で教科書を編んだ。 …… また、ひとつは講師たちが本気な授業を工夫したことである。 山田耕筰は「舞踊詩」を教えようとした。高浜虚子は俳句を通して「写生」を教えた。 法学者の末広巌太郎は自転車に乗ってやってきて「大岡裁判の意味」を教えた。 昭和5年からは菊地寛を文学部長に迎えると、川端康成(53夜)、 横光利一、中河與一、小林秀雄(992夜)、阿部知二らが講師陣に加わった。 川端は講義のかわりに生徒を浅草見物に連れ出し、 小林は20分も遅れて顔を出すと、まず煙草を一服してみせた(ここだけはぼくと同じだ)。 …… 文化学院の志はそれだけでなかった。 式典には本格的なピアニストによる演奏がおこなわれ、 ハウスマザーには大石誠之助の未亡人が当たり、 修学旅行(第1回は箱根)では歌会が催され、 習字の手本は文化学院独自のものになっていた。 軽井沢での夏期講座もあった。岸田國士川端康成が自在な話をしてみせた。

    こんな自由な学校があったのかと思うほどだ。 ここまでくるとハンサムなだけではつくれない。 9人の子供に恵まれたことも手伝っているだろう。 新宮の新風に育ち、豊かな資金に恵まれたことも手伝っているだろう。
     しかし他方では、両親を早くに亡くし、祖母に育てられたこと、 “ぼくの叔父さん”を亡くしたことこそ、伊作に「自由の一徹」をもたらしていた。
     絵画や陶芸の作品を見るかぎり、伊作の才能は図抜けているわけではない。 建築技法も設計思想も大胆というぼとではないし、技巧に富んでいるというほどでもない。 しかし、伊作のやってのけたことは、誰にも真似ができないことだった。

  • 頻繁に出てきた「生活者としての日々」が、 ここしばらく頭にモヤモヤとあることに引っかかった。 そのこととは、私が持っている「旅行者嫌い」の感覚だ。 先日も皆で話してる時 にそのことが出てきて、うまく説明できなかった (別に理解してもらわなくてもいいのだけど、 今年は少しだけ、そっち方向を模索してみようかな、 という天邪鬼)。 自分の不精からくる「動きたくない」という定住指向も何割か入っているし、 この感覚が構築された過程の一つに、これまでに出会ってきた、 海外に短期的に居るお気楽な同胞たちの存在もあるだろう。 でも、それだけではない、もっと本質的なものがある。 その土地で日々を生きている人に対して「旅行者」が無意識に漂わせている無責任さが、 私の持つ嫌悪感の一つの源泉なんだろうと言ってみたが、通じなかったようだ。 もちろん、別に悪者を作って糾弾しようという意図をもって言っているのではない。 旅行嫌いの自分でも旅行することはある。そういう時は自分自身にも 嫌悪感というか罪悪感というか、そういうものを感じている。

  • ついでなので、もう一つ今日読んだ日記で、 たまたま自分の中で同じ文脈でとらえたものも引用しておこう (よくあるシンクロニシティ)。

  • 博士号取得時の父母懇談、馬鹿馬鹿しくてーー(続き)」@mitsuhiroから引用:
    そのやってられないとか、しんどいとか、 そういう感覚はトップに立つ人達でも折々に持つ感覚でしょうが、 それをいってしまえばおしまいよ、ということですから普通は決していわないものです。

    そこで最近発見した真理ですが、たいした真理ではありませんが、 この馬鹿馬鹿しくてやってられないというのも、結局一生やるわけではないので、 そう思うのだとわかったのです。
    たとえば毎日トイレに行きますが、 もしも人生の中で10年間だけトイレに行かなければいけない、 残りの期間は行かないでもいい、植物のように排泄しないで人生をおくれるとしたら、 トイレに行くのもときおり面倒でやってられん、馬鹿馬鹿しいと、おもうでしょう。

    わがままな感覚になれるのは、やはり任期のあるようなことに対してです。 …… まあ、わがままというか任期のあることからくる自分に対する一種の甘えというか、 慰めというか。

    • この picture で何か欠けているなと思った。 で考えてみたのだが、まあ文脈から明らかなことだけど、ここでのお話は、 その「任期のある仕事」が無くなっても食っていける人、 常勤の職が確保されていて、その上に何か天災のように降ってきた仕事のことを 「任期のある仕事」と言っているということ。 「トイレに行かなくても生きていける状況」が担保された場合に限った、 その意味で本当にお気楽な話である。 定職に就けず「任期のある仕事」で甘んじている人たち (フリーターの若者や、パートのおばちゃん、そして私も含む)には直接は関係のない話。 むろん、「間接的」には、ここにダラダラ書いているように実際、 私にとっては示唆に富む「お話」だった訳だけど。

  • 私の中で何が、上の「旅行者嫌い」の話に繋がっているかと言うと、 この「戻る所が確保されているお気楽な人」がつまり「旅行者」なんだということ。

  • そう言えば、森博嗣も、何かそういう「任期のある仕事」の生む 「無責任さ」に文句を言っていたな。 あれは、定期的に職場転換が行われる公務員という文脈だったかな。

  • と、ここまで書いてたら、西村伊作さんに対する爽やかな正剛節の後味がすっかり消えて、 単なる、 戻る場所のない 風来坊の愚痴になってしまった。 もちろん、そういう不満が自分の中にあることは否定できない。 しかし、その上で殊更に私が「旅行者は嫌いだ」と言っているということは、 たとえ客観的に見ると、私の現在の居場所が「自分の国」ではなく、 今の職が「任期付き」であろうとも、 その今の自分を「生活者」として日々を過ごしているということを 意味しているのである。 (と、内田さん風にまとめてみた。)

    • とは言え、本当に「生活者」として過ごしているかと問われると、 (気概としては、何も恥じるところはないが)ちょっと怪しい。 社交的ではないと言い訳をして、研究(仕事)生活に逃げているのかもしれない。

    • 学問の世界や、大学という環境は、実は一般社会とは比べものにならないほど globalization されていて、世界のどこに居ても本質的に変わらない (それが科学というもの)。 前に面接で 「私が居た国々と日本の大学を比べた場合、どう感じますか」と聞かれて、 「国の違いよりもボスのカラーが大きい」と言った。 失笑を買ったようだが(まあ何かそれらしい答えを期待されていたのだろう。 いわゆる KY ってやつですな)、やっぱり事実だから仕方がない。 表面的には、日本は日本語、外国では英語という違いはあるけど、 根底にある価値観はほとんど差が無い(ある意味、ぬるま湯的で、居心地が良いとも言えるが)。 故に、ボスの character や運営方針の方が、 組織や国の違いよりも顕著になるのだと思う。

    • つまり、私は、本当の意味での local society に溶け込んだ「生活者」には 全然、踏み込めていない。 そもそもそういうことが数年のオーダーで可能なのかどうは分からないが、 正直、試してもいないので、何も偉そうなことは言えない立場だ。 その意味で、うちの奥さんには頭が下がる(というのは、また別の話だ)。

  • やっぱり後味は大事かなと思い、最後に正剛節をリフレインしておく。
    伊作のやってのけたことは、誰にも真似ができないことだった。

  • 付記:伊作の話の(個人的な)もう一つの芯は「本気」。