市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

「第千二百三十七夜 2008年4月30日 ジグムント・バウマン コミュニティ」@senya


  • 引用(しておかないと、見返したときに何が響いたのか思い出せない):
    (国家や社会は、そして金融機関やマスコミは) ようするに本気の“修練”や“再生”などはしてほしくない。

    バウマンのコミュニティ論であるが、 その結論は「このままではコミュニティは際限なく衰退していくばかりだろう」 というものになっている。

    (そう結論づけたくなる原因は)まず第1に、 「放っておいてほしいんだ」「どこにも属したくないんだ」 と言いたい連中が急激に広まっているということがある。

    第2には、このような脱領域的感覚が、 一方では「クール」だともてはやされてしまったことがある。

    ようするに「親密はわずらわしい」「本気は勘弁してほしい」ということである。 かつてなら、これはセーレン・キルケゴールによって厳密に 「絶望に至る病」とよばれていたのだが、いまではこれがクールでカッコいいことになった。

    これでは本気のコミュニティなどできるわけがない。 せいぜいブログやミクシィで疑似コモンズに遊ぶ程度のことだろう。 しかし本当のコミュニティは「本気になるのは勘弁してね」ではなくて、 「勘弁を本気でつないでいくこと」にこそ始まるものなのである。

    第3には、そうした感覚がいまや「新たなアイデンティティ」をもたらすという “勘違い”を決定的にもたらしつつあって、 それが社会における流動性をさらに加速させているというふうにもなっているということだ。

    このことは、イギリスのゲイ社会学者ジェフリー・ウィークスが 「コミュニティの物語が本当らしく聞こえないときに、 アイデンティティの物語がやかましくなる」と言っていることや、 犯罪学者のジョック・ヤングが「コミュニティが壊れるとアイデンティティの立証が 社会の表面を覆う」と指摘していることにもあらわれている。

    21世紀の現在日本は、かなり多くの信頼と紐帯を「信用の代用品」や 「紐帯の代理品」に任せてしまっている。

    自分自身が選んで参加した「判断力のコミュニティ」や「価値観のコミュニティ」など、 どこを探しても見つからない。
    つまりは代理や代用ばかりに頼って、 「縁」や「絆」を実感できない社会になっていけばいくほど、 そこで得られる安心や安全はどんどん薄っぺらなものになっていくだけなのだ。

    それならもうそろそろ、「同化」か「衰亡」かという二者択一に、 また「保守」か「排他」かという二者択一に、 さらには「大きな政府」か「小さな政府」かという二者択一に、 踊らされないほうがいい。 それらはすべてデュアル・スタンダードだってかまわなかったのだ。

    ウルリッヒ・ベックは、社会システムの矛盾を追い払うには、 「一人一人が伝記的に解決する」ために集まった場を創発的にもつしかないと提案し、 リチャード・ローティはコミュニティに必要なのは「厚みのある記述」だとさえ言ったのだ。 伝記的に、厚みをもって、諸君、諸君が属するコミュニティをもっと痛快にしていきなさい。

  • 付記(5/1/2008): 「第百九十九夜 2000年12月26日 オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

    • 引用:
      『大衆の反逆』は、まず大衆がけっして愚鈍ではないこと、 大衆は上層階層にも下層階層にもいること、その全体は無名であることを指摘する。

      オルテガによれば、大衆の特権は「自分を棚にあげて言動に参加できること」にある。

      オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。 科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、 このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、 科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。 こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。 それはきっと大衆の言動に近いものになる。

      ぼくはオルテガの大衆論を諸手では迎えない。
      ……
      たとえば、オルテガがエリートと大衆を分けているのは、もう古い。 古いだけではなく、まちがってもいる。 いまではエリートも大衆に媚びざるをえなくなっているからだ。
      ……
      ひとつは、オルテガのように大衆と対決する哲人は、 もう資本主義のさかんな国にはあらわれないんじゃないかという感慨だ。
      ……
      もうひとつは、大衆の解体は何によっておこるのだろうかという疑問のような感慨だ。

  • 付記(5/2/2008): これらを読んで何を思ったのか、少し考えてみた。

    • どうも私は「大衆」に対して「アンチ」し続けてきたということに尽きるみたい。 結果として内面に籠もる方向に進んできた、と。 誤解されてそうだけど(別に誤解されることは悪くないとは言うけれど)、 「社会」を避けてきたというつもりはなかった。 避けてきたのは、中身より効率を求める「軽薄な大衆」だった。 まがいものじゃないものを求めていたら、重心からどんどん外れた辺境にいた、 というのかな。(ちょうど社会に出るというタイミングが、 バブリーな社会の最盛期だった人間の感慨。愚痴ではない。)

    • こういう世の中での「生きるすべ」ってのは、 なかなか難しい問題だ(ね?、と付加疑問)