「1172 夜 2007年1月30日 ドナルド・リチー イメージ・ファクトリー」@senya
引用日本ではまるで群衆の旗印のようにその真似が大流行してしまう。
リチーはそこで、日本は少なくとも輸入ファッションについては、 あきらかに「文盲である」と断定した。
海外の文化に文盲であることは、べつだん羞かしいことではない。 それを自分のコンテキストにすれば、それでいい。 …… 日本人がむしろ得意にしていたことだった。そのはずだった。
ところがシャネル・エルメス・グッチは、買えば、そのままなのである。
いったい、どうしてこんなふうになってしまったのか。 きっと理由はいくつもあるだろうが、リチーは、 この奇怪な現象の背後に一つのおぞましい言葉が君臨していることを突き止めた。 「かわいい」という言葉だ。
最初にアメリカに住んだときか、それから日本に少し帰ったときか忘れたが、 日本のテレビ(バラエティって奴)で出演者の男女を問わず「かわいい」という言葉を 連発しているのを見て「ヘンだ」と家の人が指摘して、それ以来 私もそのことが鼻に付くようになった。
引用(リチーは) 日本中のテーマパークがスペイン村やオランダ村といった“外国”になってしまうこと、 パチンコ屋とカラオケ屋がいっこうに廃れないこと、 フィギュアやコスプレが現実の少女よりずっと現実感をもつという 倒錯があいかわらずおこっていること、 週刊誌が深刻なニュースとポルノまがいの“グラビア”を いまなお同時に飾り立てていることなどの特異な現象をあげつらい、 そういうことが流行してきた理由をなんとか探そうとする。
本当に、何でこんなみっともない「特異な現象」が普通に溢れてるんだろうな
引用それでどうなったかといえば、これはリチーが名付けた用語だが、 一億総現在主義になった。 どんな残虐な犯罪も、どんなに不幸な災害も、 せいぜい3カ月か7カ月くらいしか話題の座にいられなくなったのだ。 記憶のない日本人になったのだ。そのかわり、何が継続しているかというと、 入れ替わり立ち代わり、「かわいい」の連発で“ものごと”が通りすぎていくだけなのである。
サマリーを見ると、 世の中(なのかメディアなのか知らないが)がいかに健忘症かがよく分かる。
ちなみに私がこの日記を書いている理由の一つは、 (未来の)自分が(過去の)自分の思ったことを忘れないようにするため。
引用けれどもそんな話すらもはや遠い昔日のこと、 日本中のどこかしこでも茶髪や金髪が流行し、 いつしか、教師が茶髪を申請すれば、 校長はこれを許可するしかないと東京都教育委員会が“認定”するようになっていた。
そんなことがあったんだ、知らなかった。
しかし日本に帰ると(しばらくの間は)そのちょっと変な均一さにうんざりする。 髪の毛の色も「みんな」茶色で、女の子の髪型も(私の目には)「みんな」おんなじに見える。 (こういう違和感も、しかし、しばらくすると消えてしまうのだけど。)
何が「変」なのかと考えてみた。 均一さの中心は時間とともに結構な割合で変化していて、 それ故その「みっちり」した環境から離れて、しばらくして戻ると戸惑うのだけど、 驚きの原因は、そのゴロっと変わってた基準に「みんな」がきれいに右習えしている様にある。 付和雷同というのか、長いものに巻かれまくってるのか、 みんなで渡れば恐くないのか、事無かれなのか。
「基準が存在しない」ということなんだろうな。 そういう「基準」は自分自身で作るにはコストがかかりすぎるのでお手軽に追随する、 という手抜きの結果じゃないのかな。
あと、出る杭は打たれるようなチクリ社会でみんなビクビクしている構造が、 こういう環境をサポートしてんだろうな。(というか、こっちがベースにあるのかな。)
偶然か、何か関連があったのか知らないが、今日見つけた別の「かわいい」ネタ: オトコの品格 (駒沢敏器)