「第千二百五十二夜 2008年7月15日 藤原稜三 守破離の思想」@senya
引用、その1、川上不白:『不白筆記』には
「弟子ニ教ルハ守、弟子ハ守ヲ習尽シ能成候ヘバ、オノズト自身ヨリ破ル。 離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ルコトナリ」
とある。師が守を教え、弟子がこれを破り、両者がこれを離れてあらたに合わせあうというのだ。
……川上不白に「守は下手、破は上手、離は名人」
などがあって……
引用、その2、沢村宗十郎:初代の沢村宗十郎は
「師匠は釣鐘のごとし、弟子は撞木(しゅもく)のごとし」
と言った。本気で鐘をつけば、その音は里から山にまで届く。 鐘はそこにあるだけで、音を出すのを仕向けるのは撞木のほうなのだ。 ただし、「さあ、ここを突きなさい」と鐘も言う。それを撞木が突いていく。 その鐘の音はうんと遠くでも、よくわかる。 この宗十郎の言葉、いまでも肝に銘じている。
引用、その3:それでもぼくなりの定義は書いておいた。
「型を守って型に出て、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む」
というものだ。 この「守って型に着く・破って型へ出る・離れて型を生む」の「に・へ・を」の助詞の変化に、 守破離の動向が如実する。
引用、その4、千葉周作:その千葉周作に『剣法秘訣』がある。稽古とは何かを説いたもので、そこに
「序破急の拍子を追うよりも、守破離の筋目を通すことが稽古に欠かせない」
という、守破離の思想にずばり突っ込んだ興味深い説明が示されている。
『剣法秘訣』の「理より入るは上達はやく、技より入らんするは上達おそし」
を読んで、おおいに唸ったものだった。
引用、その4、稽古について:武芸の例など剣をふるうことなんだから、 今日の知の学習や技の継承などに役立つまいと思う向きがあるとしたら、 これは勘ちがい、大まちがいだ。 剣にもスポーツにも編集稽古にも、 これらは「的中」という感覚におきかえられるからである。 世阿弥なら「感当」と、中江藤樹は「時中」と言った、あの正解のない感覚だ。 相互に的中感を奪いあう。稽古とは、結局はそういう「中」に「当てる」こと、なのだ。
(中森晶三の『けいこと日本人』、 なぜ稽古がおもしろいか、現代に必要かということ、について)
稽古事には「初心」というものが刻印されること、 もうひとつには「玄人も素人もまざっていける」からだという。 とくに素人が玄人を凌駕していく可能性がある。 それが稽古をつける側にもつけられ側にも「夢の共有」のような醍醐味になるというのだ。
人と人との繋がり(の欠乏と渇望)とか、 教育することや教育者とかについて想ったことを思い出したのと同時に、 最近目を通している「ばなな」さん (の日記)を思い出した、フラダンスとか太極拳とか習っていらっしゃるという。 ちなみに家にも一時期(一瞬)、太極拳ブームがやってきたのだけど、 今や立ち消えだな。どうしてだ?モンちゃんがきたからかな?
お稽古といえば、今の私はギター(もう一人の人は ukulele)。 しかしモンちゃんも最近素早くて、お膝をギターと奪い合っている。いやはや。
10/5/2008: やっぱりモンは、ギターを弾いていると不満らしい。
付記(7/18/2008): 定理に追加、 サマリーにも追加。