知識と知恵とか、学習の効率とか、いろいろとモヤモヤと、ここのところ感じていること。
取っ掛かりは、望夫さんと羽生の話だっけ (映画でいうと2番館、3番館も終わって、もうビデオを借りるしかないというような、 古い古い話だけど……記憶力がよいと言うよりも、 飲み込みが悪いというか、しつこいんだろうな)、 その中の一つのキャッチ、知識の高速道路と、出口での渋滞だっけ?そいつ。 大衆を焚き付けるには(つまり、売れるには)、 ちょうどよいセンセーショナルなフレーズだったのだろうけれど、 あれってやっぱり本質的ではないよなと、最近、時々思い出しては想う。 (別に、言った人や、煽った人や、煽られた人に文句を言っているのではなくて。)
つまり、そこで(仮想的に)ターゲットにされている 「ちょっと、お兄さん(お姉さん)、ヤバいですよ」と言われている 当の「お兄さん(お姉さん)」たちってのは、先を急いでいる未だ何者でもない若者とか、 あるいは、実力が無いのをごまかしている偽者な年よりなわけで。 (もちろん、当のフレーズが言われた時にも、 こういうことが見落とされていた訳ではなかったと思うけど。)
今の私が「最近、感じている感覚」というのは、 知識を蓄えることと、考えることとは、あまり関係がない、というか、 本当に別の能力(機能)だ、という、 (みんな知識としては知っている)当たり前のこと。
何でそう思ったかというところまでさかのぼっておくと、 ギターのことから。 知識としては、 tonic だの dominant だの、 7th だの tension だの、 ii-V だの、すでに知っているのだが、 CDEFGAB すら、何というか、きちんと理解できていない自分がいるのだな、と。 知ることと、やることは、まったく別物だ、と (これまた、みんな知識としては知っている、当たり前のことだけど)。 (だから、やることが出来ない人間が知識だけでやってる評論なんて下らないと思っている、 というのは、またちょっと別の話だけど。)
7/22/2008: 評論家の意見。
世の中の多くの人は、まあ「効率」を求めているのだろうけれど、 効率よく獲得したものは所詮、付け焼き刃に過ぎず、 結局はあまり効率的ではない(のではなかろうか)と思っている 今日この頃。 ちなみに 「大衆をバカにしていては何もはじまらない、そういう傲慢さを捨てて謙虚になれ」 という話は、きちんと気になっているのだけど、 ううむ、まだ咀嚼できていないのです。青いですな。
9/5/2006: 「効率」とか「要領良さ」を求めると失われるものについて。